義足で欺く
- kyo
- 2021年7月11日
- 読了時間: 5分
義足で歩む人生という記事で、義足の良い点に”人を欺(あざむ)ける”とあげられていました。
今回は対談形式で”見られること”について、日常の実際や本音を聞いてみました。
インタビュアー(以下Q):「車椅子でいると、まじまじと足を見られますか?見られるのはどんな感覚ですか?」
石川(以下A):「見られます。切断したての頃は視線が刺さる感覚でした。時間が経つとその感覚は変わっていきました。人の視線は変わらないですが、僕の気持ちは地固まるといいますか…慣れていったんだと思います。」
Q:「実際にどんなふうに足を見られるんですか?」
A:「子供は興味本位で、純粋にじっ…と見つめてきます。子供の視線は探求心に近くて、理解したり時間をかけると見てこなくなります。興味が薄れるんでしょうね。
大人はドキッとしたような、まさしく腫れ物のような視線を向けてくる人がいます。大人でも、じっと見つめて『なんで切ったんだ?』とか声をかけてくる人もいますよ。いずれも高齢者に多いですね。」
Q:「そうなんですか…。子供がじっと見つめていた場合、親や大人はどんな対応をとるべきだと思いますか?」
A:「軽くたしなめる程度で…コラっみたいな。その場で叱ったり正したりするのは、子供や周囲の人にも良くないし、こっちも傷つきます。必ずあとで子供にはきちんと話をして、障害を理解させて欲しいです。それが親の務めかなぁと思います。」
Q:「逆に、大人や高齢者の視線や態度はどうやったら変わると思いますか?」
A:「これは難しいなぁ…。すぐには変わらないと思います。障害者や切断者がおもてに出てきたのは最近ですし、その人が生きてきた時代背景や思想・受けてきた躾など様々なことが絡んでいるので、とても難しい問題です。」
Q:「他人を変えるのは難しいといいますよね。それらの視線を受け入れるために、したことはありますか?」
A:「人の視線は変わらないものなので、自分が変わるしかないと思い、僕はとにかく『人と会う』ようにしました。普通におもてに出て行って、会って話をして、親しくなった相手から障害のことを聞かれればきちんと話す。そうすると向こうも過剰に気にしなくなるし、打ち解けて慣れてくれます。人の前に出て、人と会う。その数をこなすしかないですね。」
Q:「車椅子で歩む人生でも『鬱や外出恐怖症になるかもしれない』と書かれていましたよね。人と会ったり繋がることが、視線への耐性をつけるカギなんですね。
Q:「話は変わりますが、公にでている”義足を履いていない切断者”をどう思いますか?」
A:「特になんとも思いません。切断者でありながらも何かに挑戦していたり啓発活動をしていたり、色々やっているんだなぁというくらいです。」
Q:「では、公にでている義足ユーザーをどう思いますか?」
A:「公にでている義足ユーザーには、切断者というイメージがありません。たとえば有名なパラリンピアンや義足モデルなど結構出てきていますが、共通して言えるのは、皆さん残っている足・断端が長くて、断端が短い人は一人もいないんです。容姿も悪い人はいません。ここがポイントで、断端が長ければ歩けて当然だし活動範囲も広がるし、顔が整っているからとてもキラキラして見えます。」
Q:「確かに、とても華やかで明るいですよね。義足ってかっこいい・すごい・最先端なんだというイメージがついています。」
A:「片足下腿義足のモデルは、義足になっていなければ注目されていないはずです。でもそのモデルが有名になったところで、切断者や義足への理解はハッキリ言って進まないと思います。むしろ実際とはかけ離れていくでしょう。
以前僕がタクシーに乗車したとき、突然運転手に『君は何かスポーツやってるの?パラリンピックでてる?』と聞かれたことがありました。切断者=義足、車椅子や義足=スポーツといった図式が勝手に浸透しています。切断者でも義足を履かない人もいるし、スポーツができるわけじゃない。そういう誤った認識が広まっていくことに危機感を覚えます。」
Q:「メディアや本人にそういう意識が全くないのかもしれませんね。障害者というと脊髄損傷の方やALSの方など、重い症状の人がクローズアップされやすいのに対し、切断者となると何故か軽い症状の人ばかりが取り上げられているような印象です。」
A:「本当にその通りだと思います。切断者で重い症状の人がでてこないのは、切断している”見た目”がひとつの原因としてあげられると考えます。ショッキングな見た目だから取り上げない。どうせ取り上げるなら義足を履いている方が、華があってストーリー性がある。そうなると、必然的に歩けていて、何かしらスポーツや芸能活動をしていて…という切断者が選ばれます。障害の本質を捉えていないと思いますよ。」
Q:「切断者のなかには、歩かない選択をした人、歩きたかったけど叶わなかった人、歩けて普通に生活している人…いろんなひとがいますよね。
石川さんは、義足で歩いているところをじっと見つめられるのはどんな気持ちですか?」
A:「義足で歩いているところを見られるのは嬉しいですよ。義足で歩くことはつまり、自分が受けてきたリハビリや過去の努力がすべて体現されていることで、今までの人生の結果だと思っています。どんな気持ちで見られているかはわかりませんが、見てもらえることはとても嬉しいです。」
Q:「では、義足で人を欺くと感じる場面を教えてください。」
A:「周りの人が歩いている僕のことを全く気に留めないときです。スマホをいじって歩いている人は、僕が車椅子に乗っていると気付かれてしまうんですが、義足で歩いているとそのままスマホをいじり続ける。並んで歩いている人たちが、話や足を止めずにそのまま通り過ぎていく。切断者と気づかれないとき、気持ちいいと感じます。
…気づかれないがゆえに、道をあけてくれなかったりと辛いときもありますが(笑)」
切断者特有のセンシティブなテーマを、よりリアルに聞くことができました。
みなさんは切断者への視線をどう思いますか?
聞きたいことや気持ちなど、コメントお待ちしています。
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